歴史と伝説の町・宮津

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〒626-0065 京都府宮津市字獅子崎376-1 TEL 0120-21-4840(0772-22-4840)
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天橋立の起源
天橋立誕生ストーリー
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その昔、高天原(日本神話の神々が暮らす世界)最古の神といわれる「天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」が高天原の神々に頼まれて下界に降りる橋を作りました。
完成した橋を使い神々が橋から下界に降りる際、
天御中主神は、「この橋は、本当に必要な時だけ神のみが使える橋。むやみやたらと使うと、たちまち壊れてしまうから注意してね」と言いました

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そうして神々が最初に降り立った土地が、現在の宮津市といわれています。
降りた先には美しい娘がたくさんおり、神々は大喜び。また娘達も「神様がこの地に御出でくださった」と歓喜しました。
たちまち神々と娘達は仲良くなり、さまざまな話をするようになりました。

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そうしている内に、娘たちは神々が降りてきた橋を見上げ、「私たちも一度高天原にいってみたいです。なんとか連れて行っていただけませんか?」と言い出しました。
これには神々も大変困りましたが、結局根負けして内緒で連れて行く事に…。
連れて行く際、「決して声を出しちゃダメですよ!」と約束した神々と娘たちは、長く高い橋を登ります。 ところが、上っていくにつれて下界の景色が眼下に広がり、そのあまりの美しさに娘達が思わず「わぁ…なんて綺麗なのでしょう!」と感嘆の声を上げてしまったのです。

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これを聞いて神々は真っ青に!
天御中主神との約束を破って人間に橋を渡らせてしまったため、たちまち橋はガラガラと音を立て崩れ去ってしまいました。
高天原への架け橋はなくなりましたが、崩れた橋の一部が海に浮かび、人々は残った橋の一部を、『天橋立』と呼ぶようになったそうな。

三人寄れば文殊の知恵

宮津市にある智恩寺・文殊堂は、有名なことわざの「三人寄れば文殊の知恵」の由来で、知恵の菩薩として有名な「文殊菩薩」が祀られています。
ことわざ自体は、「特別に頭の良い者でなくても三人集まって相談すれば何か良い知恵が浮かぶ」といった意味合いですが、知恩寺は文殊菩薩にあやかる学業成就祈願のスポットとしても親しまれています。

三人寄れば文殊の知恵の写真
歴史が彩る町・宮津
歴史が彩る町・宮津の写真

宮津市には縄文時代から古墳時代にかけての古い遺跡が点在し、当時の人々の生活を今に伝えます。また、戦国時代には細川藤孝の統治がなされていましたが、歴史的大事件「本能寺の変」が起きたことにより宮津も歴史の激流へ…。
藤孝は、盟友である明智光秀が謀反を起こすと、早々と隠居し家督を息子の忠興に譲り、田辺城に入ります。

慶長5年の関ヶ原の戦いでは、豊臣の西軍寄りの土地にありながら、徳川側の東軍に付き、当然ながら周囲の西軍1万5千の兵に取り囲まれてしまいます。
50日にも及ぶ籠城戦の末、藤孝は後陽成天皇の仲介で命を助けられました。丹波亀山城に幽閉されましたが、本戦である関ヶ原で東軍が勝利し、人質だった細川ガラシャ(明智光秀の三女)は自刃して東軍の士気を高め、嫡子・忠興も戦功を上げ、手柄を立てました。
その後、江戸時代になっても藩主が入れ替わり立ち替わり、めまぐるしく動く宮津の歴史は複雑です。現在も至る所に、さまざまな時代の面影が息づいています。

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